私はぶどうの木、あなたがたはその枝である。ーヨハネによる福音書15:5ー
これ、すごく有名な聖句で、クリスチャン系幼稚園やサンデースクールに通う子供たちはほぼほぼ覚えているんじゃないでしょうか。私もまさしくそんな子供の一人でした。ただ、神様が木で、私たちが枝で、繋がっていればいいんだなーって思ってここまで過ごしてきました。
でも、大きくはハズレていないけど、結構ハズレていました
今日はこの長年親しんできた聖句を深掘りしてみようと思います。
15:1から読んでみましょう。
「わたしはまことのぶどうの木、わたしの父は農夫である。」
「わたしの父」!?
そうなんです。皆さんはご存知だったかもしれませんが、私はここから間違っていました。
「わたし」はイエス様。まことのぶどうの木がイエス様ご自身で、神様ではないんです。
「わたしの父」は神様。イエス様のお父様で、このイエス様のぶどうの木が植っているぶどう農園の農夫だったんですね!
そして続く箇所は、
「わたしにつながっていながら、実を結ばない枝はみな、父が取り除かれる。
しかし、実を結ぶものはみな、いよいよ豊かに実を結ぶように手入れをなさる。」(15:2-3)
神様と繋がっていれば、ではなかった
ここでははっきりと神様とではなく、イエス様と繋がること、そして実を結ぶことと書かれています。
イエス様、つまり十字架と復活。そのことによって罪人であった私たちにもたらされた救い
これを受け入れることでイエス様と私たちは繋がることができるんですね!
ここで、イエス様と繋がることの大切さが分かってよかった!ホッ・・・ってしてるとダメなんですよね!
ここからがまた重要なんだということが分かりますよね。
「実を結ぶ」ことです。
せっかく十字架の血潮によって罪が洗い流され、復活に預かる永遠のいのちを与えられた!というところまで到達しても、実を結ばなければ、農夫である神様に取り除かれてしまうのです
そして、その「実」というのは、愛の実です。
この世の中、「愛」が欠如した世界、みんなが自分のために、自己実現のために、我先にと生きるこの世の中において、「愛の実を結ぶ」。つまり自分より他人のために、自己犠牲を伴う、神様の愛をこの世の中で実践していくことだと思います。
それを自分の努力でしよう!と頑張っちゃうと行き詰まります。息切れます。熱意が冷めちゃいます。気分がのらないことも出てくるでしょう。
だから15:5にこう書かれています。
「人がわたしにつながっており、わたしもその人につながっていれば、その人は豊かに実を結ぶ。わたしを離れては、あなたがたは何も出来ないからである。」
愛の実を結ぶために、再びここへ戻ってくるわけです。
イエス様と繋がっていること。今度は愛の実を結ぶという目的のために、です。
そして一旦このようにイエス様の木に繋がる枝となれて、愛の実を結んだ時にはなんとなんと!!
今度は農夫である神様が、イエス・キリストの木の枝として樹液を受けている者となった私たちに、
更にもっともっと多くの愛の実を結ぶように、自らの手で枝のわたしたちを手入れして下さるんです。
ここにまで至れれば、なんと幸いな人生でしょう
イエス様の木からいつも絶えず生き生きとした樹液を得て、
私たちは自分の人生、自分の生活、自分の将来の心配する必要なく、
神様に手入れして頂きながら、この暗闇の世の中で、光の子として、
悩んでる人、苦しんでいる人たちに向けて愛の実践、愛の実をどんどん結び続けていくことが出来るのです。
は〜〜〜〜〜、最高の人生ですね!
さらにおまけがあるんですよ!15:7です。
「あなたがたが、わたしにつながっており、わたしの言葉があなたがたの内にいつもあるならば、望むものを何でも願いなさい。そうすればかなえられる。」
「あなたがたが豊かに実を結び、わたしの弟子となるなら、それによって、わたしの父は栄光をお受けになる。」
と続いていきます。
この『イエスはまことのぶどうの木』の箇所はヨハネによる福音書15章の1節から17節まで。
私の聖書には色とりどりの線が引っ張り尽くされています。笑。
こんなわけで、今日は「わたしはぶどうの木、あなたがたはその枝である。」のお馴染み暗唱聖句を深掘りしてみました。
ここまでお付き合い下さりありがとうございました。
これからも、その時響いた聖書箇所をできるだけ聖書に馴染みのない方々にも分かりやすくお伝えしていければと思っています。ご意見、ご感想等ありましたら、ぜひお問合せフォームからお声をお寄せください。
コメント